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社員のつぶやき

社員のつぶやき

木挽町

2013-04-12

先日の7日に歌舞伎座のこけら落としに夫婦二人で行って来ました。しかし今日はその話ではなく通称、東銀座と呼ばれる歌舞伎座周辺。かつて、この一帯が呼ばれていた町名『木挽町』の話をちょいとしてみます。
その町の名は江戸城修築の時に鋸商(木挽き職人)を住まわせた事に由来する、いわば職人の町だった。木挽きとは伐採された原木を見定め大鋸(おが)で木を引く事。鋸(のこぎり)の引き方次第で、木目の出方や品質も価値も大きく変わってしまう為、高度な技術が要求される職人仕事だったという。
木挽町の場所とは右の地図を見て頂ければ分かるように、北は昭和通りを京橋と銀座の境を横切る首都高の下から、南は汐留の手前のやはり首都高の下の蓬菜橋の交差点までで、東はこれまた首都高が走る旧築地川から、西は現在三原橋の交番があり、かつて三原橋が掛っていた三十間堀川までの細長い町だった。
昔は町のすぐ近くまで江戸湾が迫っていたのだろう。中央区の区史には『江戸時代、三十件堀川の一帯は汐の香高く、岸辺に寄せる波の音を聞いた』とあるそうだ。
明治22年(1889年)に出来て以来120年以上続く歌舞伎座。それ以前は、江島.生島事件(1714年)を引き起こした『山村座』や『森田座』等が芝居小屋を開いていて、『木挽町へ行く』と言えば、歌舞伎見物に行く事を意味するほど町と溶け込んでいた。
歌舞伎座がシンボルだった木挽町だが、一方で戦前は7〜8丁目付近を中心に料亭街が広がり、新橋花街の芸者さん達の生活の場でもあったようだ。
江戸中期、能楽の金春座(こんぱるざ)の屋敷舞台が銀座にあり、そこで長唄や常磐津、舞などを身に付けながら下働きをしていた女性たちが、後に金春芸者、そして新橋芸者になっていった。
銀座は芸者発祥の地でもある。
新橋芸者の芸を発表する為に作ったのがもう一つのシンボルである大正14年開場の『新橋演舞場』である。
木挽町は、徳川幕府が開かれた慶長年間から約350年も続いたという歴史ある町。ところが終戦後、町を揺るがす大問題が起きる。瓦礫処理に困り、捨て場所となった三十三間堀川が埋め立てられ、銀座の町と地続きになった為、色々と住民の間でもあったらしいが結局、昭和26年(1951年)この一帯の町名が味もそっけもない『銀座東』と変わり、さらに昭和44年(1969年)分かりやすさのみが重視され歴史的な地名が消滅した天下の悪法、住居表示改正で銀座そのものになってしまい『木挽町』という粋な名前は消滅してしまう。
旧い町名、街並みがどんどん消えていく昨今だが、歌舞伎座がリニューアルオープンし新たな街のシンボルを得て、旧木挽町エリアがどんな街に変わっていくのか楽しみに見続けていたい。           
                    

                                                                     森 上 (克)



 

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